フロムさんの大きなお世話~コミュニティFM編

コミュニティFMについてラジオプロデューサー、フロムさんが色々語っています。

若者とラジオ・3

私が若者であった頃のラジオは、今までのクライアントをテレビに取られ始めた時代だった。
ラジオは、かって茶の間の箪笥の上に置かれ、その下で家族は集まり、父は酒を飲み、母は繕いをし、子供たちは卓袱台で勉強をしていた。
典型的な家族のイメージである。
そして、日本人の生活にゆとりが生まれるようになり、茶の間にはテレビが置かれるようになった。
ラジオは、床の間の端の方に追いやられ、テレビが面白くない時とか、しょっちゅうあった停電の時に情報を聞くためにスイッチを入れるだけだった。
家族全体をターゲットにしていたラジオのクライアントは、徐々にテレビに移って行く。
「漫才学校」が消え、「蝶々雄二の夫婦善哉」が消え、「赤胴鈴之助」が消えていく。
もはや、家族のためのラジオは維持できない。
当時のメディアにセグメンテーションという概念はなかったかもしれない。
これは、若者をターゲットにした番組、これはサラリーマン、これはOLのため。
そんな七面倒くさい理屈を言わなくても、プリミティブな売り言葉だけで番組は売れただろう。
しかし、テレビの侵食により、ラジオへの出稿は減って行ったに違いない。
そこで、起きたのが深夜放送ブーム。
深夜なんか、今までは捨てていた時間だ。
確かに家族をターゲットにしていれば、深夜に放送をする理由がない。
ほとんどの家が10時を過ぎていたら寝ていた。
当時の夜は暗いし、蛍光灯などはまだ普及し始めたばかりだ。
寝る時は、家族は一緒の部屋だったりする。
ラジオを一人聞くなんてことはありえない。
そして、団塊の世代は中学生になり、高校生になる。
高度経済成長が豊かさを更に各家庭に運んできて、若者たちは自分の部屋を持つようになる。
テレビは部屋になくとも、不要になったラジオは自分のものにすることができる。
流れてきたのが、この前にも書いた衝撃的なサウンドだ。
ビートルズベンチャーズ、後にはフォーク・ムーブメント。
学校はビートルズに代表されるムーブメントを規制しようという立場だった。
武道館のコンサートの時に、学校の先生が会場周辺に配置され、生徒が中に入ろうとするのを止めていたという事実は今も語られていることだ。
不良の集会場に行くのを教育的見地からやめさせていたのだろう。
その後、ロックのコンサートには常にこういった規制はつきものだったが、若者の中でそれが多数派になりつつある頃から、先生がライブ会場に配置されるというのはなくなっていった。
ラジオは、若者にとってはある意味、権力に対抗する「根拠地」だったのである。
この場合の若者は、もちろんだが少数派である。
それゆえ、私は彼らをイノベーターと呼ぶ。
権力(大人)が規制する情報を、ラジオは若者に向かって流し続けた。
このあたり、インターネットを根拠地にしている今の若者たちと精神的には何ら変わらない。
インターネットは俺たちのものだ、ネットがあるから、もう大人たちにはだまされないという表現がネットの中に多く見られるが、同じような気持ちで私も「ラジオは俺たちのものだ」と叫んでいたのである。
この話、しばらく続けたい。