フロムさんの大きなお世話~コミュニティFM編

コミュニティFMについてラジオプロデューサー、フロムさんが色々語っています。

yes-fm再考

昨日、yes−fmについて少し触れてみたのだが、2005-7-10のこの欄で次のような書き込みをしている。


大阪の戎橋商店会が発行している「えびすばし」という雑誌を図書館で見つけ、しばらくバックナンバーを読んでいた。
96年11月号でYES・fmの方が、コミュニティFMについてコメントを寄せられていたのだが、参考になるかもしれないので一部を引用させてもらう。


「テレビが高速道路、広域放送のFMやAMが国道ならば、YES・fmは路地だ。」
うん、その通り、その認識は間違っていない。


「大きな放送局に力で対抗しようなんて初めから思っていない。でも、番組を面白うしようと思えば、何ぼでもできる。放送局・ラジオがいつのまにか持ってしまった既成概念を取り払うこと。そうすれば誰でも個人でラジオというメディアを利用しあい、発想も広がるはずだ。」
夢はよくわかる、でも、YES・fmがその後言葉どおりうまくいったのかどうかは既に結果が出ている。


YES・fmは、できればクラブ的なイメージでやりたいとも書いてあった。
ハコを提供する、そこで皆がコンテンツを持ち寄り、ラジオを通じて自由に情報を発信しようというスタンスなのだろう。
残念ながら、開局したコミュニティFMのほとんどが同じような夢を語っていた。
そして、その通りになる局のなんと少ないことか。
さて、昨日の私の話を思い出していただければ、この論者に欠落していたか、さほど問題視していなかったことがおわかりになるだろう。
そう、コンセプトはどれだけ正しくとも、「聞こえない」のでは画に書いた餅にすぎないということだ。
コミュニティFMに理論はさほどいらない。
「聞こえない」ことを前提として、自分達をどう位置付けるかである。
「聞こえなければ、金にならない。」
「聞こえなければ、メッセージは届かない。」
「聞こえなければ、正論も無意味だ。」
同じようなことはCS-PCM放送のミュージックバードにもあった。
どれだけコンテンツが高価値であっても、チューナーがなければそれはどこにも届かない。
一体、そのチューナーはどこにあるのだ。
聞こえないものは、無価値だ。
無価値なものを、私達は毎日金をかけて作っているのだと思うと、絶望的な気分がしたものだった。
さて、そういった事実を真正面に見据えて、コミュニティFMにできることは何だろうか。
それを私としても考えていきたいし、また皆さんからのご教示も頂戴したいと思っている次第である。