フロムさんの大きなお世話~コミュニティFM編

コミュニティFMについてラジオプロデューサー、フロムさんが色々語っています。

リダンダンシー(冗長性)?

月刊「民放」6月号に「ラジオ少年による関西のラジオ史」(黒田勇関西大学教授著)という記事があった。
その冒頭で、
リダンダンシー(冗長性)とは情報の予測可能性を示す概念であるが、ラジオというメディアは音声だけの情報を提供している以上、メディアの特性として、その情報はリダンダンシーが低いということになる。」とある。
リダンダンシー(Redundancy)、あまり普及していない言葉だが、ラジオにとっては重要なキーワードだと筆者は語る。
はてなには、「広義的には、肯定的な意味における遊びや余裕、余地を指す。」という解説が載っている。
続けて筆者は、
「ラジオのコミュニケーションにおいては、明晰な発話や繰り返し、言い換え、例え話などの多用ということになるだろう。(中略)受け手のすでに持っている情報に依存したコミュニケーションをするということになる。」と書く。
正直、わかったようなわからないような話である。
ラジオにおいて、そんなにリダンダンシーという概念が重要なのだろうか。
「ラジオはリダンダンシーが低い。」
音声で伝える場合、確かに限界はある。
活字がそのまま伝わらないし、映像的なものも伝わらない。
多分、それをリダンダンシーの観点から音声コミニュケーションの欠点と指摘されているのだろう。
つまり、ラジオの喋り手は、リスナーとコミニュケーションをする時、音声の特性であるリダンダンシーの低さをカバーするテクニックが必要だと言っていると思われる。
当たり前といえば当たり前の話だ。
しかし、リダンダンシーなんて言葉を使わないと表現できない話なのだろうか。
ただ、確かに音声だけでリスナーとのコミニュケーションが成立するなら、それは視覚を含むコミュニケーション以上に、人と人とのつながりを強固にしそうな気がする。
これは視覚に障害を持つ方のほうが、人の本質に対して確かな認識をお持ちになるということと関係がありそうだ。
音声のみの世界は、人と人のつながりを強固にする。
暗闇の中で人と話した時に、人の本質がわかりやすくなるということは、そういうイベントが盛んに行われたりすることでもわかるだろう。(例:「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」(DID):日常生活のさまざまな環境を織り込んだまっくらな空間を、聴覚、触覚、嗅覚、味覚など、視覚以外の感覚を使って体験する、ワークショップ形式の「暗闇のエンターテイメント」)
私は今もラジオの世界が好きであり、全日本ラジオ党でもできれば参加したいと思っているほどだ。
ラジオは古いメディアだと思っている方が多いかもしれないが、放送が始まってからまだ100年も経っていない。
まだまだ未知な部分が多いのがラジオというメディアだと私は思っている。
外観の変化にごまかされて、もはやラジオには限界があるなどと考えてはおられないだろうか。
確かに過去のビジネスモデルは揺らいでいる。
だからといって、ラジオを全否定するには、我々はあまりにも無知であり蒙昧だ。
そうは思われないだろうか。