フロムさんの大きなお世話~コミュニティFM編

コミュニティFMについてラジオプロデューサー、フロムさんが色々語っています。

コミュニティFM論

はてなダイアリーを始める前に、私が書き綴ってきたブログに「ペンギン・ノート」というのがある。
これは私の頭にうつりゆくよしなしごとを書き綴ったもので、あまり人の目に触れないところで今も不定期だが続いている。
そちらにも、コミュニティFM論を書いているのだが、その一部を少し紹介しよう。
2002年5月29日の書き込みである。
誰も読まないだろうと思っているので、この欄よりはやや過激な表現があるのをお許しいただきたい。


「番組はボランティアでも作れるが、リスナーはボランティアでは聞いてくれない。」
番組を作るぐらいは誰も気軽にできるが、それでリスナーが聞いてくれるかどうかはわからない。
ボランティアであろうとなかろうと、番組にエンタティナー的要素を持たなければ客はついてくれないわけだ。
コミュニティFMはボランティアでもいいのだ、と簡単に言う人たちが多いのがとても気になる。
番組らしきものは作れても、そこで繰り広げられるのは落語の「寝床」そのものだったりするのだ。


浄瑠璃好きの旦那が、素人芸を出入りの連中に無理やりきかせるという話。
だが、浄瑠璃なんて素人がしたり顔でやったりすると、目もあてられない。
付き合いで初めは聞いているが、そのうちどんどん飽きてみんな寝てしまう。
食事つき、酒つきでも願い下げということになるのだ。
どこかの、役所から補助金が出ているようなコミュニティ局はたいてい、こういった寝床FMになったりする。
寄席でも、最初に出てくる前座の話なんか聞く人なんかほとんどいないだろう。
1年以上修行している前座でも聞いちゃおれなかったりするのが芸の世界である。
一体、コミュニティFMのボランティアがどれだけ修行してきたというのだろうか。
大相撲でも、幕下以下の取り組みを見る人は少ない。
やはり関取の相撲とは迫力も技量も違う。
それでも見てやろうという人は、よほどの粋人か親戚関係者だろう。
つまり、コミュニティFMなんか幕下以下の客のいない相撲場風景そのものなのである。
県域でやっと十両、大都市のFM局になってやっと幕内なのだ。
見るからに貧相、誰が見ても勝てそうにない、場違いを知らなければ滑稽なだけである。
コミュニティFMはまず、このことを自覚しないといけない。
その上で、どうしたら私達のような番組でも聞いてもらえるようになるのかを真剣に考えるべきだと思うのだがどうだろうか。


後半なんか、えらくキツイことを書いているな、と思ってしまうが、その当時はコミュニティFMを甘く見ていた人が多かったということなのかもしれない。
このコミュニティFM論、しばらく続いているので明日からそれを引用しながら補足するべきことは補足していきたい。