フロムさんの大きなお世話~コミュニティFM編

コミュニティFMについてラジオプロデューサー、フロムさんが色々語っています。

ラジオに求めるもの・3

昨日の続き。
ラジオの役割としてコミュニケーションがあったと書いた。
それも単なる情報ではなく、見知らぬ世界を案内してもらい、知的好奇心を満足させてもらったという体験も含めて。
勉強する鉛筆の動きをしばし止めて、ラジオから聞こえてくるメッセージに耳を傾けた。
へえ〜、そうなんだあ〜。
それと比べてテレビはあわただしい。
なにを言っているかわからない時は、下に文字でテロップが出る。
この人はこんなことを言っているのだと、テレビは主張する。
しかし、その人は本当にそんなことを言おうとしたのだろうか。
テレビは、そんなことはどうでも良いのだろう。
演出にそって、視聴者は情報を得ればよいのだと作り手は思っているかもしれない。
自分達の思ったように、視聴者は動けばいい。
それがテレビの究極の目的?
反応すら、ステレオタイプにはめられていくようで実に不快である。
それに比べて、ラジオにはそんな演出はあまりない。
人と人とのストレートなコミュニケーションがはかられていると思うのは浅はかだろうか。
少なくとも私の世代は、そんな純粋な気持ちで毎日ラジオを聞いていた。
今はラジオも演出に冒されているという人もいるかもしれない。
だが、そんな仕掛けにこるほど、ラジオには金がかけられていない。
金がかかっていないということは、即ち演出にも限度があるような気がする。
ま、そういうわけでラジオはまだ、心と心のつながりがあるのではと思ったりしたわけだ。
で、肝心なのは、そういった心のつながりを持ちたいと思えるような喋り手がどれだけいるかということになる。
昔は、ラジオの喋り手はラジオの中から生まれてきた。
すでにテレビなどで有名になった人が、ラジオでも喋るという今の傾向とは微妙に違っていたように思う。
ラジオの中の人は、存在感を持ってラジオの中にいたと言うべきか。
その人の全人格はラジオの中にしかないような錯覚に陥ったりしたわけだ。
コミュニティFMに可能性があるとするなら、そういった存在感をもってラジオの中にいる人を育成することではないだろうか。
リスナーが望む人は、きっとそんなラジオの中にいる人なのだと今日はちょっと思ってみたりした。