フロムさんの大きなお世話~コミュニティFM編

コミュニティFMについてラジオプロデューサー、フロムさんが色々語っています。

もっと、もっと・2

「もっと、もっと」という叫びは、どこから来ているのか。
それは欲望、飢え、心の渇きと言えるのかもしれない。
ラジオというメディアが何故必要なのか、何故人々の気持ちがラジオに向かうのか、何らかのヒントが生まれるかもしれない。
もし、人がラジオに向かわなくなるとすれば、そのニーズ(欲望、飢え、心の渇き)にラジオが対応できなくなっているのだろう。
漠然とラジオを考えるのではなく、私たちはどんなニーズを満たそうとしているのかを考えた方がいい。
意識化されていないsomething、それは何か?


私の中の飢えを考えてみた。
何故に、アクセス(TBSラジオ)を聞くか?
多分、今の日本の政治状況に違和感を感じているからだろう。
4年前の小泉選挙、改革派でもない政治家が、小泉純一郎という毛皮をかぶって300議席
それはおかしいだろう、小泉さん、勝てばそれでいいのかと思ったものだった。
でも、私が抱いている違和感は、単なる私の錯誤によるものかもしれない。
だから、アクセスの話題に私の錯誤を検証しようと思った。
それだけの信頼性はあると私は感じていた。
アクセスの中にも、私が感じていた違和感を口にする人は多かった。
必ずしも錯誤ではないという気持ちを維持できた。
私の精神的バランスを維持するために、アクセスは有意義だった。
最近、少し聞くのが減っている。
ラジオ側で、更なるニーズの掘り起こしが必要、私の実感だ。


何故に、永六輔TBSラジオ)を聞くか?
洒脱に生きる、人生のお手本のような方がそこにいたからだ。
生きる上で学ぶことが多い、作り手側のスタッフも優秀なように思えた。
だが、こちらも最近聞く機会が減った。
多分、永さんの言葉が不明瞭になってきたからだろう。
発言するパワーがどうしても落ちる。
お手本が老いてしまえば、その信頼性は毀損される。
残念だが、老いは受け手のニーズには邪魔なだけなのかもしれない。
何を言っているかわからない晩年の古今亭志ん生師匠の落語、それに味があるという人もいたが、私にはきっぷのいい言語明瞭な志ん生師匠でなければ満たされないものがあったのも事実だ。


ラジオに対して「もっと、もっと」と叫ぶ機会が減った。
それは私に原因があるのか、それともラジオ側にあるのか。
明日も、もう少し考えてみたい。