フロムさんの大きなお世話~コミュニティFM編

コミュニティFMについてラジオプロデューサー、フロムさんが色々語っています。

沖縄

沖縄の話を続けます。
私がはじめて沖縄に行ったのは、今から30年ぐらい前。
本土復帰は72年だったが、車両が左側通行になったのは78年のこと。
それゆえ、私が行った頃は制度が変わってからしばらく立った頃だった。
沖縄の印象は、質素の一言だった。(貧しいと言い換えてもいいかもしれない)
今のように高速道路もなければ、バイパスもない。
道路沿いにある店は、看板を掲げている店は少ない。
白塗りの壁に、ダイレクトにペンキで店の名前を書いていた。
西部劇に出てくる店のイメージというか、私は確かにその時にそう思った。
宿泊したのは、本部地区の高台に米軍宿舎に囲まれて立っていたシェラトンホテル。
垢抜けした高級ホテルだったが、今は影も形もない。
ホテルは、ビーチのそばに立つか、那覇の市街に立つかしか、本土の客を呼び寄せる魅力はないのかもしれない。
そう考えると、私の泊まったホテルは、誰を顧客としていたのだろうか。
観光客向けというイメージはなかったし、第一今の外資系ホテル並に高かったのだから、やはりアメリカ人向けのホテルだったのかも。
先ほども書いたが、ホテルの周りの広大な敷地には米軍の高級宿舎が立ち並んでいた。
あちらこちらの家でパーティが行われていた。
そこにあるのは、誰が見てもアメリカの裕福な生活であった。
「フェンスの向こうのアメリカ」、沖縄の人々はそれを見ながら、自分達の未来を実感できなかったのかもしれない。
沖縄には何もない、富はアメリカが持っていく、私たちは本土に行くしか希望が持てない。
そして、若い人たちは沖縄を離れ、大阪にやってきたのだろう。
あるものは、その後東京をめざした。
ある、60を過ぎたと思われる女性の方が、「沖縄の女性は、それでも何とか本土で生きることができた。私たちは、標準語がしゃべれたからだ。女性は標準語を話すのが普通だったし、そう教育された。男性は、そんな強いプレッシャーがなかったためか、本土での標準語にはなじめず、結局沖縄に帰るしかなかった人が多かった。」と言っていた。
今の沖縄、相変わらず貧しい、若者には夢がないと言われる人もあるが、私が初めて見た沖縄とはやはり違って見える。
皆さんが異口同音に言われる、長いバス(早い話、電車のこと)がない唯一の日本の県だったが、今はゆいレールが走るようになった。
バイパス沿いには、日本と同じチェーン店が明るいネオンを輝かせながら続いている。
それでも、沖縄には夢がないという。
それは、本土でも容易に見ることができる、過疎化現象の一つなのか。
それとも・・・。