フロムさんの大きなお世話~コミュニティFM編

コミュニティFMについてラジオプロデューサー、フロムさんが色々語っています。

大阪レジスタンス

桂三枝さんの話を書いていたら、つい「大阪レジスタンス」のことを思い出してしまいました。
桂三枝という生き方」(ぴあ刊)によると、1986年の作品となっています。
で、これが毎日放送でラジオドラマ化されたのが1988年。
その当時、どれだけ大阪で話題になったのか、残念ながら東京に異動した私にはほとんど実感がありませんでした。
いや、ひょっとしたら今このブログを読んでおられる人もほとんど「大阪レジスタンス」を知らないのではないかと思わないでもありません。
何しろ、最近大阪にちょくちょく行くようになっても、大阪人から「大阪レジスタンス」の話を聞かないのです。
何でもかんでも東京が仕切る。
テレビもラジオもスポーツも言論も。
中央集権的統制型国家に変貌していく、そんな危機感を私も持っていました。
大阪人が何故東京人の感覚にあわせないといけないのか、何故全体を東京が仕切り、その一部を大阪が担当しないといけないのか、一体そんなことのどこが面白い?
中央集権は、確かに民衆を一元的に管理しやすくするでしょう。
地方が中央の意志に従わず、勝手なことをやっていたら効率が悪い、それもわかります。
しかし、何故文化の世界で効率論が語られるのでしょうか。
文化って、効率で計れるものではないでしょう.
地域文化でも、それが全国に波及するぐらいのエネルギーを持つものなら、それは地域文化とは言えなくなります。
だが、中央集権的発想になると、地域文化は地域文化なのです。
地域文化でこれは全国にも使えるなと思ったら、中央が自分の意志ですくい上げる。
地域が自分達だけの力で勝手に全国へ出ようとするな、それは中央にとっては邪魔なだけだ。
そんな構造が日本の至るところで生まれたような気がするのです。
例えばFMのネットワークでJFNというのがあります。
全国38のFM局をネットしています。
つまり、同じ放送を同じ時間帯に流す、中央集権的なFMネットワークです。
で、先日書いたFM802のように、大阪だけで番組を制作している方が大阪人には支持されます。
テレビで十分東京の情報は受けとる。(鬱陶しいけど)
ラジオぐらい、全部大阪らしい放送せえや。
それが大阪人の多数派の意見だと私は思っています。
それなのに、FM大阪は肝心な時間、みんな東京からのネットや。
今では神戸のFMもJFNの軍門に下って、情けない放送をやっとる。
あほちゃうか、誰のために放送やっとんねん、東京に尻尾ふったら金が入ってくる?金か?金がほしいだけか?
必ずしもそうではないのですが、そういう大阪人を説得する言葉は私は持っていません。
東京にあわせればそれでいいのでは、大阪の存在意義がないではないか、誰も戦わないんだったら、おれだけでも戦う。
それは郷土の文化を守るためだ、おれたちの親達が営々として築いてきた大阪の文化を東京ごときに席巻させてなるものか、おれたちのレーゾンデートルを今こそ問おう!
かくて大阪レジスタンスが生まれるのです。
そして、私もまた、その志はこの胸の奥にあります。
東京に住所を置いてすでに18年経ちます。
でも、大阪がこのまま東京の付属物のように扱われるのには耐えられないと思うのは事実です。
何とかしないといけない、じっちゃんの名誉にかけて。
冗談ではなく、本気でそう思っています。