フロムさんの大きなお世話~コミュニティFM編

コミュニティFMについてラジオプロデューサー、フロムさんが色々語っています。

音源へのこだわり

また皆さんに批判されるかもしれませんが、やはり最初に聞いた音にこだわりがあるんですよね。
前にフランク・プウルセルの「急流」の話をしたと思います。
http://d.hatena.ne.jp/from3/20051107
「音楽の力」シリーズの2回目から5回目で「急流」のことを書いているわけですが、これを読んでおわかりだと思いますが、私がこだわったのは「若い頃聞いた急流」なのです。
実は今、iTunesでフランク・プウルセルのアルバムをずっと聞いているのですが、このアルバムに入っているのも「私が知らなかった急流」です。
「急流」という曲は同じでも、私の頭の中では自分の経験に一致しない「急流」は「急流」ではないのです。
そういえば、マンがの「美味しんぼ」で、よく「この〇〇は、本当の〇〇じゃない!」なんてセリフが出てきますね。
自分が価値を置いているものは、同じ名前がついていてもこれではないという魂の叫びなんだと思います。
私が若いときに食べていたものは、もっと芳醇で、ほわ〜として、などと抽象的な表現で自分が価値を置く〇〇を語るのですが、そんなものは相手に通じないのが普通です。
子供の時の体験は、その時に言語化されていないため、どうしても伝えるのにワンクッション、ツークッション、置いてしまいます。
だから、今の人に自分の体験をそのまま言葉に置き換えても、「へえ〜、それでどうしたのですか?」という反応を呼んでしまいがちです。
こういう価値観のギャップはどうしようもない、特に世代間においては。
ま、そういうことで、「この急流は本当の急流じゃねえ!」の一席でした。
ニニ・ロッソの「夜明けのトランペット」にも、同じものを感じました。
曲を聴いた時、「ああ、この曲だ、確か、このときは私はこうして、ああして・・・」という回顧モードに入ったわけです。
でも、当時、私にはニニ・ロッソのレコードを買う金もなければ、それをもっている知人もいませんでした。
多分、私はラジオだけで、ニニ・ロッソの曲を覚えたんだと思います。
それも20曲も、30曲も。
それだけ、ラジオでもよくかかっていたのでしょうし、私もそういうラジオばかりを必死になって追い求めていたのでしょう。
音楽を聞くための努力というか、エネルギーが今の時代の人とは確実に違うのがわかります。
単なる消費財になってしまった音楽には、昔のような普遍的価値が感じられなくなっているのかもしれません。
音楽を流すだけでラジオは貴重なメディアと評価されていた時代、多分もはやそれは幻想でしかないと思うと、音源にこだわっている自分が情けなくなります。
同じ世代の方には少しだけでもわかってもらえそうな気がしますが。