フロムさんの大きなお世話~コミュニティFM編

コミュニティFMについてラジオプロデューサー、フロムさんが色々語っています。

器〜プロデューサー論

今年もあと10日あまり。
何か、色々な厄介なことが次々と起こった2011年も、あと少しで終わる。
年改まり、また一から出直す、そんな気分で2012年を迎えたい。
心からそう願う。
さて、もう一つのブログに、ちょっとしたプロデューサー論を書いた。
コミュニティFMにも関係のない話ではないと思い、こちらにも載せてみることにした。
ご意見など、またメールでいただければ幸いである。


大器晩成という言葉がある。
広辞苑によれば「鐘や鼎(かなえ)のような大きな器は簡単には出来上がらない。人も、大人物は才能の表れるのはおそいが、徐々に大成するものである。」とある。
学校教育でよく先生が言った言葉でもある。
おまえは、今はダメだが、将来大きな人物になるよというのだ。
「このクラスは大器晩成型だな。」と慰めるように言う教師もいた。
早い話、みんな大したことなかったと言っているわけだ、傷つかないように。


そういえば、私も何度かそう言われたな。
結局、大器でなかったのか、晩成もせずじまいだったが。


そういえば、人を器という言葉で表現することがある。
あの人は器が大きいとか、器が小さいとか。
器=許容量ということだろうか。
人を許せたり、人に対して寛容であったり、小さいことにこだわらず、何があっても動揺しない、そういう人柄を器の大きい人と言うようだ。
器の小さい人は、その逆ということになる。
世の中、どちらが多いかというと、圧倒的に器の小さい人。
大きい器を持った人など、なかなか出会えるものではない。
私が社会人として育ったFM大阪の先輩や同僚、後輩の中に、この人は本当に器が大きいなと思った人は一人もいない。
そこそこの人格者でも、例えば自分が不利になりそうな場合、責任をうまく他人に押し付けたりしていた。
所詮、サラリーマンなんだなとその時思った。
ふだん言っていた聖人君子の道はどこへ行ったんだと、ため息をつく私だった。


放送局に、器の大きい人なんかいない?
そんなことはないと思う、でも、大変貴重な存在のはず。
むやみに大きくなくてもいいから、そこそこの器であってほしいと思うことはよくある。
特に私のようなプロデューサー的立場の人。
とにかく、プロデューサーは人に寛容であってほしいし、人を許す度量をもってほしい。
タレントにしても、ディレクターにしても、スタッフにしても、人は誰でも何らかの間違いをするものだ。
その間違いを常に監視し、見つけ次第注意するなどということをやっていたら、人は間違いを恐れて冒険をしなくなる。
つまり、楽なやり方で、その場その場を取り繕ってしまうのだ。
そんなところから、本当の面白さは生まれるだろうか。
新しい方法論は生まれるだろうか。
間違ってもいいから、自由にやればいい、何かあれば私がその責任を持つ。
プロデューサーなら、これぐらいのことを言わないといけない。
それが言えないのは、結局プロデューサーも間違うのを恐れ、一番簡単なやり方でその場を取り繕ってしまうからだ。


どんな誤謬も許さない、政治の世界でも最近目立つのが気になる。
この国はいつから共産圏の国家になったのか。
死の町という言葉を許さないし、ちょっとした言い間違いを許さないし、わかりやすくするために使った比喩さえ、それはこういう意味にとれると言って非難する。
そんなこと言っていたら、わかりやすい言葉を政治家はますます使わなくなるぞ。
今の官僚言葉が典型だろう、確かに後から突っ込まれることもないかわりに、実際に何言っているのかわからなくなる。
民に伝わらない言葉を駆使すれば、彼らの権力はいつまでも担保される、そんなことでいいのだろうか。


話がそれてしまった。
プロデューサーは、できるだけ器を大きくもてるよう日々精進しないといけない。
スタッフの責任を追及するのではなく、いつでもその責任を肩代わりできるよう、状況の把握に努めなければならない。
ガミガミと怒ってみても、相手が萎縮するだけなら、適当に切り上げないといけないし、つまらないことを根にもってはいけない。
目的は何か、それをいつも正しく示すこと、そしてそれが認識されているのがわかれば、手段を間違えても詮索しないことだ。
多少の脱線は許すべきだし、また違った方向が一つの進化の道をたどることもよくあることだ。
こうでなければならないと言ってしまえば、プロデューサーの負けだ。
抽象的かもしれないが、私はいつもそう思っている。