フロムさんの大きなお世話~コミュニティFM編

コミュニティFMについてラジオプロデューサー、フロムさんが色々語っています。

過去のアーカイブ〜コミュニティFM5

放送局時代の私の上司が亡くなった。
ビールが大好きで、他の酒を飲むのを見たことがない飲兵衛さんだった。
享年77歳。
若い顔をしたまま、棺の中に納まっておられた。
色んなことを教わった。
その方が新入社員の頃はまだ取材用のテープが高く、インタビューの練習などに使う収録用のテープはなかった。
先輩の方から、廃棄したテープがあるから、それを繋いで使えと言われ、まだ大丈夫そうなテープの部分をスプライシングテープで繋ぎ合わせて、5分間ぐらい使える取材用テープを作ったのだとか。
だから、お前も練習だと思って、そういうテープを作って使ってみろ、色々気づくことがあるから、と。
このあたり、放送局は職人の世界であったことがよくわかる。
今は、そういう職人技よりも、マウスとキーボードの処理の仕方が重視されているようだ。
でも、あれって、あまり職人っぽい感じがしないなあ。
何か、心のそこから気づくことって、ありました?
では、アーカイブの続きである。
最後にエムボマがどうとかとあるが、元ガンバ大阪で大活躍、そしてこの年のサッカーW杯でカメルーン代表で来ていた選手です。


2002-6-1 23:57
旅の空の下にいる。
とある駅に下り立ったら、駅前にコミュニティFMがあった。
町の公共施設の中に入っていて、小奇麗にしてある。
番組はどうかと、耳をそばだてたが、音楽が意味もなく流れているだけだった。
地方へ行くと、コミュニティFMは立派な文化施設だったりする。早い話、多目的ホールとか会館、公民館と同じようなものだ。
地域の人たちが何かしたい時に、町がそのための施設を提供するという構図。
決して、町はコミュニティFMを使って、何が何でも情報発信の核にしようとしているわけではない。
そういうお題目だけはいくらでも唱えているが。
この場所から、どんどん情報を発信して下さいとか、情報交換の場にしてください、とかだ。
しかし、それは単なる願望にとどまっている。
口先だけで、情報発信の基地などにはならないのは自明だ。
ホールなどでひどいのは、高い金をかけて東京からアーチストやイベントそのものを購入して来ることがメインのように考えていること。(NHKの番組に来て欲しいという秋波も幾度となく送っている、何とかなりませんかと私に陳情される人もたくさんおられた。)
確かにホールの求心力は高まるが、情報発信は後が続かない。
単発で、大きなことをやっても、文化的波及力は一時的なものでしかない。
何らかのシステムを作り、日常的に効果的な情報を効果的な層に向けて発信して行く。
その構造がない限り、どんなインフラもただの飾りである。
コミュニティFMは、ただの飾り?
でも、今日行った町のように、ほとんど情報発信の場がないようなところでは、コミュニティFMでも期待するものは大きい。
音楽を聞こうと思えば、NHKのFMを聞くか、県域FMを聞くか、やや不満でもコミュニティFMを聞くかしか、選択がない。
どうも近くに、CDのレンタルショップもなさそうだし、レコード店もあるかどうか、わかったものではない。
自然とまったりと共存している、この町の人々には、まったりとしたコミュニティFMがあってもいい。
ハワイで聞いた、日系のラジオ局なんか実にまったりしていたなあ、と今思い出したところ。
司会者は電話を受けているだけ。
リスナーが次々電話をかけて来ては、伴奏なしで電話口で歌を歌う。
ワンコーラスだけ、司会者は何も言わずに聞いている。
ひどい歌も一杯ある。
我慢しているのか、聞いていないのか。
「はい、ありがとう、今日は夕方の献立は何するつもり?」などと聞いている。
どうでもイイ話題が、まったりとかわされる。
それで、聞く人が一杯いるのだから、けっこうなことだ。
何も、県域FMのように、若者向けのテンポの早い、饒舌な番組にすることもない。
町の人と呼吸をあわせれば、自ずとどういう番組を流せば、リスナーは毎日ダイヤルを合わせてくれるかがわかるだろうに。
頭で、ああだこうだと理屈ばかり考えていても、リスナーはやってはこない。
大事なのは、「気」であったり、「空気」であったりするのではないか。
それは、ともにその場にいて、自分の身体すべてを使って感じるものでなければいけない。
コミュニティでも、意外と支持されている番組があるとすると、おそらくそういうことがきっちりできている番組であろう。


とある駅で、駅弁などを買い求め、待ち合い室で食べていると、どこからかサッカーの実況の声が、エムボマがどうたらこうたら、田舎で聞くワールドカップはちょっと違和感、、、
ハワイの番組、スポンサーは地域の商店が多かったと記憶している。
今日は何が安いとか、新しくこういうものが入荷したとか、車の御用はとか、修理はどこそこへとか。
すべてが日常の一部なのである。
放送は特別なものではない、コミュニケーションの一ツール、情報のちょっとした出口。
大層なこと考えずに、地道に放送続けていれば、自然とコミュニケーションの輪ができるのかもしれない。